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 ■横須賀まつり〜横須賀町方

 横須賀という地名は神奈川県横須賀市など各地にあり,東海地方でも遠州や三河などにあります,
いずれの横須賀も海辺の砂州の寄洲として付着した土地からついた地名と考えられます.
右は尾張名所図絵の横須賀の項です.海から見た横須賀町方の繁栄を小田切春江が描いています.

尾張名所図絵より


■横須賀御殿

横須賀御殿絵図(張州雑志より)
 東海市横須賀はかつては「馬走瀬(まはせ)の浦」と呼ばれており,寛文6年(1666)尾張2代藩主徳川光友公がここに別邸(横須賀御殿)を設け,一帯に碁盤割りの町並みを整備したのが横須賀町方の始まりといわれます.

 尾張藩の老臣はすべてこの別邸近くの警備の任についただけではなく,何時でも出兵出来る準備がなされていたといわれます.
 これは国内の乱に備えたのではなく,国外における有事のための対応だということで,町方前面にある地は,新田の開発を許されず,永く海浜に沿っていました.(現在は開発が進んで工場が建ち並び,海は遠くなってしまいました)
 しかし,この軍事基地的要素が仇になったのか,光友公の死後幕府の圧力によって取り壊されることになります.

 この軍事基地的要素を持った横須賀御殿を驚異に感じた幕府は、監視役の陰陽師を周辺に土着させます.これが藪村(現東海市養父町)や寺本(現知多市)に伝わる尾張漫才の祖であるとか.


■横須賀町方

東海市誌より
 現代では,人が多く住んだり店舗が建ち並ぶ所を通常「町」と呼びます.また行政上でも「市」・村」と同様「町」があります.(知多で言えば武豊町とか南知多町です)
しかし,藩政時代には「町」と呼べるのは城地のある場所に限られていて,尾張藩では名古屋犬山のみです.(名古屋の町も広小路から本町御門までの地域が町であり,市街全部を指したものではなかったようです.それ以外は名古屋村・広井村などの村でした)
 この他に「町」の文字を用いることの出来たのは1国1港の地,尾張藩においては白鳥町(現在の熱田区).それと熱田は名古屋における町の続きと解釈され城下町に準じて町とされました.
 また尾張藩では材木輸出等のために設けられた特別輸出港の制度がありここも「町」と称することが出来ました.この他には,いかに繁栄した地であっても「町」と称することは出来ませんでした.

 横須賀が「町方」と呼ばれたのは,前述のように光友公の別邸があったからで,藩命により町域が成立した事によるのです.これは,後に別邸が廃せられかわりに横須賀代官所が置かれるようになっても変わりませんでした.
この町方域は,現在の愛宕神社から南側の碁盤割りになった一帯で、現在の東海市横須賀町の一部になります.
 4組5台の山車はこの旧町方域で所有伝承されてきました.


■高横須賀
 高横須賀村.元は横須賀の本郷でしたが,横須賀町方が分離したため1町1村に分離したものです.
本郷であれば「上横須賀村」とか「本横須賀村」と称すのが普通ですが,伝承によれば御殿(別邸)の所在地名の頭に加える文字が「上」とは穏やかならぬとの御沙汰があり「高」の字に変更すべき旨が申し渡されたとか.
 ちなみに,この高横須賀の諏訪神社にも明治初期まで山車祭りが存在していましたが、明治末期に廃止されています.
これらの山車は,廃絶時に小型の今川組の山車は知多市八幡町小根に,白木で彫り物の豪華な南脇組の山車は常滑市北条に譲渡され,屋形が障子紙張りやよしず張りの西脇・東脇の山車は解体後,廃材扱いで競売されてしまったとのこと.山車は外輪の知多型だったようです.
 この高横須賀の山車4台,そして加木屋村の3台(ここも明治初年廃絶),そして現存する大田の山車4台と横須賀の山車5台を合わせると,幕末時には合計16台の山車が東海市に存在していたことになります.

参考:知多郡史・横須賀町史他

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