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横須賀まつり〜山車の特徴


■建造時期

 横須賀の山車に関する資料はほとんど残されておりません.
山車本体に記録が残るのは,北町組山車の框に文政9年(1826)の墨書と,本町組の山車彫刻裏に書かれた天保13年(1842)などです.
 山車の建造時期は,各車ともにおおよそ文化・文政期前後と推定もしくは確定出来ますが,現在の山車が初代なのかそれとも再造なのかは定かではありません.
また大門組の山車は他の山車に比べ建造時期は,やや古いものと推測されます.
 圓通組の山車蔵棟札に「奉再建祭禮車」とあることや,近郷の大里(大田)や岡田(知多市)・寺本(知多市)などの山車から推定すると,横須賀の山車祭りの起源は1700年代に遡るのではないかと思われます.

■山車の形式

 山車の形態は半田市をはじめ知多半島で広く分布する知多型ではなく,いわゆる名古屋型と呼ばれる形式です.
名古屋型の山車は,知多半島では常滑市大野・小倉・西ノ口で見られ,これら知多半島西海岸は海運等で名古屋との結びつきが強く、文化面でも名古屋と強い影響があったことが推測されます.
 ただし,一般的な名古屋型の山車とは細部が異なり,横須賀独自に発展したと思われる特徴が多く見受けられます.名古屋型でも横須賀亜種と分類すべきかも知れません.
 山車彫刻は5台ともに瀬川治助重定(父)・瀬川治助重光(子)父子の手による作品が多く見られ,治助重定が山車彫刻を手がけるきっかけとなったのがこの横須賀の山車からだとも考えられます.

■山車の特徴

正面前棚と側面3面の山車幅いっぱいに彫られた素木の彫り物は,いわば知多型で壇箱に相当するもので,「玉川」「烏天狗」など瀬川得意の題材で細密に彫られた作品群です.(重定作の大門組を除き重光作)
 山車建造時期より後に彫られているため,途中で改造を受けた可能性もあります.また,一般的な名古屋型の山車には見られないため,知多型の山車の影響を受けたのかとも思われます.
出高欄(高欄が山車の幅より出ている)になっており,その高欄下部(支輪)に重定作の多くの彫刻で飾られます.
北町組

新出来町・鹿子神車

 多くの名古屋型は下層部の前後が格子で解放されています.横須賀の山車は前面が閉じており,大幕(赤幕)で下部まで覆われています.
 この前面中央は柱が台輪から立ちあがっており,改造の痕跡は見られません.創建当初よりこの形態だったかは不明ですが,江戸期の名古屋の東照宮祭礼絵図などを見ますと,前面は幕で覆われています.
おそらく昔は曳き回し時には格子戸を閉め、幕を下ろすのが原則だったのだと考えられます.
 横須賀の山車は、格子戸の代わりに嵌め殺しの格子にして構造を省略してあるのでしょう.

屋形(上山)の四本柱を斗形で支持しており,虹梁,蛙股彫刻も多く付けられ,知多型と名古屋型の中間的な形態です.
 屋根上に鳥衾(鬼板の上部に突き出た棒状の材)がある.この鳥衾は知多型で多く見られ,名古屋型山車では見かけません.

楫方と呼ばれる山車の楫棒を担当する若者は前楫4人,後楫4人で梃子棒(てこ)を使わないのも特徴の一つでしょう.(大野町・西之口など知多半島の名古屋型山車も同様梃子を使用しません)
からくり人形はすべての山車に見られますが,大将人形が存在しません.

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